外語祭―そのハートは、語劇にあり!
TUFS Featured

東京外国語大学の学園祭「外語祭」は、ユニークな各国料理店と語劇で知られています。このうち「語劇」は、なんと今から113年前の1900年に始まり、東京外国語大学の存在そのものを体現してきた行事です。今回のTUFS Todayでは、この「語劇」の歴史をご紹介します。

はじまりは、1900年!

第一回の語劇は、東京外国語大学の前身?東京外国語学校のもとで行われ、会場は東京商業学校の神田一ツ橋にあった講堂だったといわれます。このときは、「講演会」と呼ばれ、当時の8語科、すなわち英語科、仏語科、独語科、伊語(イタリア語)科、西語(スペイン語)科、露語(ロシア語)科、清語(中国語)科、韓語(朝鮮語)科による熱演が行われました。当時の記録によると、来客1000人、各国の大使や皇族も参観し、語科ごとに演目を翻訳したプログラムが配られたといいます。

その人気は相当なものとなったらしく、1902年の第3回講演会以後は、当時の日刊紙『時事新報』や『日本新聞』などに大きな記事として取り上げられるようになっています。1905年の第5回講演会について、『日本新聞』は、演目だけでなく、登場人物全員の名前まで掲載しています。見慣れない外国語劇は、白熱の演技、大がかりな大道具や女装の登場人物などでも注目を集めたようです。

しかし、あまりの人気と盛り上がりに監督官庁の文部省から自粛の通達が下り、結果として、1908年の第7回を最後に1919年までの間は、長く「講演会」は禁止されてしまいます。日露戦争の余波のなか、露語(ロシア語)科の学生などは捕虜の通訳などとして全国に送られていたというような事情もあったといいます。

「語学大会」~「国情展覧会」~「語劇大会」

しかし、度重なる陳情の末、「講演会」は「語学大会」と名前をかえて、1919年に復活します。大正デモクラシーの高まりという風潮も後押ししたことでしょう。その後の中止は、関東大震災の年(1923年)と、1929年の2度だけです。1929年の中止は、文部省が学校劇禁止の訓令をだし、派手な衣装を制限したためでした。やむなく語劇は中止され、各国の地域事情を紹介する「国情展覧会」が開催されました。しかし、生徒?教員の強い希望により翌年には語劇は復活し、1930年からは、正式に「語劇大会」と名乗っています。このような動きの背後には、語劇が、4千人の観客を集める東京の名物行事のひとつとなっていたという事情があったのでしょう。「語劇大会」は、教授陣や外国人の先生たち、そして学生らが一丸となり、学校をあげて開催する、東京外国語学校の一大行事でした。
こうした熱意は、語劇の舞台の写真が絵葉書として残されていることからもうかがえます。本学文書館のコレクションには、第2回語学大会(1919年)、第3回語学大会(1920年)の記念絵葉書が収められています。その一部をご紹介しています。

上の写真にはない演目も、すこしご紹介しましょう。1919年にはゲーテ『ファウスト』(独語部)や『首剣秦之宮殿』(支那語部)、1921年にはゴールキイ『どん底』(露語科)、『仏陀』(印度語部)、1922年にはドーデ『アルルの女』(仏語部)、タゴール『王と其の妃』(印度語部)、『ババリシア』(馬来語部)、1924年にはチェーホフ『歯医者』(露語部)、1925年には『ハムレット』(英語部)、『哀れなるハインリッヒ』(独語部)、1926年には『ヴェニスの商人』(英語部)、『れ?ミゼラブル』(仏語部)、『ある日ののドンキホーテ』(西語部)、1927年には『成吉思汗艶史』(蒙古部)、『スラバヤの星』(馬来語部)、『特権』(伊語部)、1928年にはメテルリンク『青い鳥』(仏語部)、1930年にはロケット『ソナタ』(葡語部)、1931年にはゴーゴリ『検察官』(露語部)、『リア王』(英語部)、1932年には『The Ghost of Jerry Bundler』(英語科法科?貿易科)、1033年には『誓』(印度語部)、1934年にはチェーホフ『記念祭』((露語部)、1935年には寺田喜市『ユナの父』(馬来語部)、『捉放曹』(支那語部)、1936年『幸福への旅』(葡語部)や『さらば青春』(伊語部)などなど。 戦前のさまざまな制限のなかこれらがどのように演じられていたのか、興味はつきません。
戦争による中断、戦後の再開

日本が戦争に突入するなか、1937年、語劇大会は中止され、その復活は戦後1947年のこととなります。戦争中も学内で非公式に制服?制帽姿で演じていたという記録もありますが、その内容は詳らかではありません。
終戦後の1947年、第29回(復活第1回)の「語劇祭」が10月31日から11月3日の4日間、な